アオイのアパート。 ディミトリはアオイの部屋のチャイムを鳴らしていた。片耳にイヤフォンを付けて何かを聞いていた。 直ぐにドアが開きアオイが顔を出した。「すまないが腹に入ってる弾を抜いてくれ……」「今度は銃弾なの?」 アオイは呆れ顔で返事した。それでも、部屋の中に入れてくれる。 信用していないが疑ってはいないようだ。相手の弱みに付け込んで下衆な要求する男が多いのに、ディミトリはそれをしないので気を許しているらしい。「ちゃんと病院に行きなさいよ」 以前は追跡装置を取り出して今度は銃弾だという。街中に防犯カメラで監視してるわ、銃を持ち歩いているわで不思議満載な少年だ。この少年はどんな男なのかアオイは不思議に思っていた。 まあ、中身が中年の傭兵なのはアオイは知らない。「行けるもんならとっくに行ってる……」 ディミトリが弱々しく答える。止血してる布には血が滲み出てきていた。「また、無茶な事したんでしょ」「……」 その時、部屋のトイレから物音がした。アオイしか居ないと思い込んでいたディミトリは咄嗟に銃を向けた。「だ、誰だ……」 ディミトリがトイレに向かって言う。「出て来ないのなら鉛玉を打ち込むぞ?」「待って!」「……」「中に居るのは私の妹よ……」 トイレのドアが開き、女の子が一人出てきた。背格好も顔付きもアオイにそっくりだった。 ただ、残念な部分は姉同様、オッパイが無いところだ。「この人がお姉ちゃんが言ってた子?」 アオイの妹はアカリと言った。大学生になったばかりで、今日は遊びに来ていたらしかった。 ディミトリの事はアオイから話を聞いているらしかった。「ああ、厄介事ばかりを君のお姉さんに押し付けるクソガキさ……」 ディミトリはそう言って銃を降ろした。アオイも釣られて苦笑いを浮かべている。「手術ならしてあげるから銃をテーブルに置いて……」「分かった……」 ディミトリは素直に銃を置いた。「これ、本物?」 銃というものを見たことが無いアカリは珍しがっている。「ああ、まだ七発ぐらい弾が残っているはずだ……」「使ったの?」「ああ、四人殺って来た」 アオイの手がピクリと動いた。ディミトリが冗談を言ってないことは分かるようだ。 それから妹を見て台所に行けと顎で示した。妹も素直に従った。 アオイは自分のバッグから緊急
はっきり言って美人姉妹だ。幼い頃から周りを彷徨く男が絶えなかった。 冴えない男を惹きつけるフェロモンでも出てるんじゃないかというぐらいにモテたらしい。「一年ぐらい付きまとわれて、家を引っ越したりしたけど突止められたりしたの」 中でもストーカー男はしつこかったらしい。興信所を使って探したらしかった。 見た目は冴えない男の癖に、妙に自信たっぷりに話すので興信所が騙されてしまうのだ。「警察に相談したら、警察が注意してくれた……」 普通のストーカーはここで諦めるらしい。 ストーカーの資質にもよるが、ストーカーに直接警告するのは危険な場合もある。「その直後に妹はストーカーに誘拐されてレイプされたわ」 ストーカー男は自暴自棄になり、妹を拉致監禁したらしかった。 警察は直ぐに動いてくれたが色々と間に合わなかったらしい。「結局、男は逮捕されて刑務所に…… でも、刑期が終わって釈放されたら再び妹の前に現れたの」 女の子に一生モノの傷を負わせるのに、この手の事件の刑期は意外と短いものだ。しかも、釈放されると足取りを追跡出来ないし、再犯される可能性が高い。従って、被害者が一生逃げ隠れしないといけない羽目になってしまう。 なかなか、解決の難しい性質の事件だ。「お前を殺してやるってね」 カチンと音がした。銃弾が見つかったようだ。銃弾の周りを抉っているのだろう。グリグリと弄られる感触が伝わってくる。「だから、妹を守る為にあの男を轢き殺したのよ……」「そうか……」 これはディミトリに何かして欲しいと言うより、自分の闇の部分を吐露したかったのだろう。 人は自分の心の底に抱える闇からは目を逸らしたがるものだ。 アオイはディミトリに語ることで、心の負担を軽くしようとしているのだろう。彼は分かっているので黙って話を聞いていた。「ちょっと、引っ張るからね」 麻酔されているとは言え、腹の中を弄られる感覚は伝わってくる。いつもながら慣れないものだ。 アオイはディミトリは腹から銃弾を取り出した。弾の先頭部分が少しだけ潰れているようだ。 白い皿の上にカランと転がされた。「ステプラーで傷口を押さえるけど、当分の間は運動は厳禁よ?」 パチンパチンと音を立てて傷口が縫合されていく。最後は消毒ガーゼを当てて手術は済んだ。「ありがとう……」 手当をして貰った事に、
アオイのアパート。 ディミトリは手術が終わったので帰宅しようとしていた。麻酔が効いているのか痛みはさほど無い。 それでも身体が重いと感じていた。(ああ、しまった…… 帰りの足が無いや……) ディミトリは自転車を大串の家に置いてきてしまったのを思い出したのだ。 流石に、大串の家まで徒歩で行って、自転車を漕いで帰るのは嫌だった。「なあ、別に金を弾むから車で送ってくれないか?」 ディミトリがアオイに頼み込んだ。アオイが了解したとばかりに鞄から車の鍵を取り出した。 すると台所からアカリが顔を覗かせた。「それなら私がやるからお姉ちゃんは休んでてよ」 なんとアカリが運転を申し出てくれた。きっと、台所でアオイの話を聞いていたのであろう。 彼女なりに気を使っているのだ。「じゃあ、お願いするわ…… 私は消毒とかしなきゃならないから……」「うん……」 アカリは自動車のキーを受け取り、ディミトリを載せて車を走らせた。車はディミトリの言った場所を目指して走っている。 目的地は廃工場だ。 (さて、家に帰る前にやることをやっておかないと……) 車の助手席に座りながら、ディミトリはスマートフォンを操作していた。廃工場で始末した男たちが持っていたスマートフォンだ。 一台は田口兄の車で盗聴するのに使ったので残りは三台。その三台に位置情報通知アプリを仕込むのだ。(アイツラの話だけだと俺のバックボーンは知らないみたいだな……) 大串たちの話を盗聴した限りでは、彼らは『若森忠恭』が謎の組織と揉めているのを知らないでいた。 最初は大串たちがディミトリを叩くために人に頼んだのかと思っていた。だが、短髪男が口にした台詞が気になっているのだ。(気になるのは短髪男が言っていたお宝が何を意味するかだな……) 銃で撃たれたとは言え、短髪男を始末したのは早計だったかと後悔した。短髪男の背後関係を調べるべきだったのだ。 しかし、始末してしまったのはしょうがない。今は出来ることを実行しようと考えていた。(俺の考えが合っていれば、連中の安否を確かめに来るはずだ……) ディミトリは短髪男が何かを吹き込まれて、乗り出してきた可能性を考えていたのだ。 その為にも、連中が行動する前に、もう一度廃工場に行く必要が有った。(ビデオカメラを回収しないとな……) 動画はレーザーポイン
「今日以外にも、人を殺した事が有るんですか?」「ああ……」「何人くらい?」「アンタは今ままで生きて来て、食った飯の数を数えたことが有るのか?」「……」 ディミトリはアカリの質問のくだらなさに辟易した。人は善人であろうとするのは良いが、押し付けてくる奴は大嫌いだったのだ。 傭兵の時にフリージャーナリストとやらのインタビューを受けたが、『人権』だの『罪悪』だの言い出したので叩き出したことがある。そんな物は、空調の効いていて弾丸が飛んでこない、安全な部屋に籠もっている奴が考えることだ。自分ではない。「貴方は神様に許しを請うたりしないの?」「ははは、俺の懺悔に値打ちなんか無いよ」 そう言ってディミトリは再び笑いながら言った。これは本音だった。 彼が人を殺めて来たのは戦場だ。お互いに死ぬ事が仕事なのだ。双方に納得尽くで戦うのであれば誰かに許してもらう必要など無い。それがディミトリの考えだった。「一度でも人を殺した人間は、自分で自分を許せなくなるもんさ」 神様へ許しを求めても鼻先で笑われるのが関の山だ。「出口のない迷路の中で同じところをグルグル廻る事になる」「……」「お姉ちゃんが人を殺したのは彼女が選んだ事だ。 切っ掛けが君に有ったとしても、それを選択したのは彼女だ」「……」「その事を悔やむ必要はどこにも無い」「じゃあ、私はどうすれば良いの?」「自分が幸せになる事だけを考えれば良いんじゃないかな?」 自分の生き方を決めるのは自分だけだとディミトリは思っている。そこに肉親であろうと付け入る隙間は無いのだ。「それだと姉に申し訳なくて……」「君たち姉妹は、お互いの許しを得ようとしているだけさ」 何に対して申し訳ないとアカリが思っているのかは知らない。だが、二人はお互いの傷を撫でているだけなのだとディミトリは思った。それでは、いつまで立っても解決などしない。「……」「お姉ちゃんが自分を許せるかどうかは彼女にしかわからんよ」 それはディミトリも一緒だ。もっともディミトリの場合は自分を許す事など無いだろうと思っている。 彼の心の底にあるのは愛情を向けてくれなかった親への増悪だけだ。「君たちはお互いに依存し過ぎている。 離れて暮らすことを勧めるね……」「そう……」 ディミトリが言うと、何か思う所があるのか彼女は黙ってしまった。「
「すまないが今夜は付き合ってくれ……」「え?」 アカリは身構えた。それはそうだろう。相手が中学生の坊やとはいえ男の子だ。 女の身としては警戒するのは当然だ。「ああ、変な意味じゃない…… この傷だから激しい運動は出来ないから安心して……」「……」「あの工場を見張る必要が有るんだよ……」「……」 ディミトリはそう言って工場の方を見つめていた。 アカリはディミトリにつられて工場を見た。電気は点いていないので暗闇に包まれている。 夜遅くにになってディミトリは祖母に電話を入れた。勉強が捗らないので大串の家に泊まり込むと嘘を付いた。 こうしないと心配した彼女が捜索願を出しかねないからだ。 やがて時刻は日付を跨ごうとする時間になった。「見込み違いだったか……」 ポツリと漏らした。ディミトリが気にしたのは短髪男が口にした『お宝のありかを言え』だった。 これは『若森忠恭』では無く、『ディミトリ・ゴヴァノフ』としての正体を知っているのではないかと考えたのだ。 だが、時間が立つに連れ杞憂だったのではないかと思い始めていた。何も変化が無いのだ。 このまま朝まで誰もやって来なかったら、中にある遺体の始末する方法を考えねばならなかった。 ところが深夜一時を少し回った頃に、一台の車が到着した。車は暫く停車していたかと思うと、四人ほどの男が降りてきた。 そして、車から降りた男たちはシャッター横の入り口から中に入っていった。 ディミトリの読みは当たったようだ。短髪男の関係者なのだろう。 一人だけ大柄な男が居ることに気が付いた。だが、暗くて良く見えなかった。 ディミトリはスマートフォンに繋げたイヤホンに集中しはじめた。 男たちの足音も含めて音は明瞭に聞こえる。「くそったれ」「全員、殺られているじゃねぇかっ!」「随分と手慣れているな奴だな……」 どうやら、四人の遺体を見つけたらしい。口々に罵っていた。「何で消毒液の匂いがするんだ?」「消毒液じゃねぇよ漂白剤の匂いだ。 血液に含まれているDNAを壊す為に撒くんだそうだ」「日本人はやらなぇよ。 主に外人たちが好んで使う方法だ」「本当にアンタの言っていた小僧が殺ったのか?」「――――――――――――――――――?」 英語らしいが発音が酷くて聞き取れなかった。一般的に日本人は英語の発音が得意では
自宅。 ディミトリは朝方に家に帰り着いた。もちろん、学校に行くのに着替える為だ。 一応は平凡な中学生を演じ続けているディミトリには必要な事だ。 学校に行くとクラスに大串たちの姿は無かった。(普通に登校しろ言った方が良かったか……) ディミトリが自分の席につくとクラスメートの田島人志が話し掛けてきた。「よう! 今日さ…… 俺の家に来ない?」「何で?」「良いものを買ったんだよ」「良いもの?」「ああ…… 来てみれば分かるって!」 今日は特に予定は無い。強いて言えば短髪男から戴いた拳銃の手入れをするぐらいだ。 銃は天井裏に隠しておいた。今度は燃えないゴミの日に捨てられる事はあるまい。(そうだ、田島からベレッタを譲ってもらおうか……) 田島のベレッタは一番最初に発売されたモデルのはずだ。短髪男の持っていたのは最新型。 並べて置いておけばモデルガンに見えるに違いない。(うん…… うん…… 中々良いアイデアじゃないか) その日は何事も無く過ごし、自宅に帰る前に田島の家にやって来た。二階建ての普通の民家だ。 二階にある田島の部屋に案内されると、そこは販売店のように整然とモデルガンが並んでいた。「おおっ! すげぇっ!」 ディミトリは思わず声を出した。とりあえずディミトリを驚かすのに成功した田島はご満悦のようだ。「中々のもんだろう?」「ああ……」 その中にベレッタが有るのを目ざとく見つけたディミトリは田島に話し掛けた。「なあ、頼みが有るんだが……」「何?」「あのベレッタを譲ってくれないか?」「え? あんな古いので良いの?」「ああ、買った時の値段を払うからさ」「別に構わないよ…… 実を言うと同じのを二丁買って困っていたんだよ」 そう言って田島は笑っていた。本当は香港スターのチョウ・ユンファのマネをして二丁拳銃を買ったのは内緒だ。 それにベレッタは五丁以上持っているので邪魔だなと思っていたのだ。「ところで見せたいものって何?」 ディミトリは田島が『ある装置』を手に入れたそうなので見せて貰いに来たのだった。 こちらのお願いを聞いてくれたので、彼の自慢話に付き合うつもりのようだ。「じゃじゃぁーーーん」 彼が手招きして見せてくれたのは、最新型の3Dプリンターだった。「これで市場に出てこれない東側の奴も作れるぜ!」 すで
(三次元の複雑な構造を作り出せるのか……) 作成されたモデルガンをひっくり返したりしながらディミトリは確信に近いものを得た。(これならアレが作れるかもしれんな……) そう、ディミトリが思いついたのは『減音器』だ。世間様ではサイレンサーの方が通り相場が良い。でも、消音はされないで少しだけ音が漏れるので減音器なのだ。サプレッサーでも良い。 この3Dプリンターでなら複雑な構造を持つ減音器を作れると考えたのだった。 音というのは衝撃波だ。その衝撃波を多段の吸音壁で吸収し、音を減じてやれば良いだけの話だ。 使う機会はそんなに無いだろう。寧ろ通常の戦闘においては速射が出来ないので邪魔でしか無い。 ならば、耐久性を無視した、強化プラスチック製の使い捨て減音器も有りだとディミトリは考えた。(とりあえずは彼に設計図を起こしてもらう貰う必要があるな……) 3Dプリンターで物を作るには複雑な立体図を作成する必要がある。あいにくとディミトリにはそこまでの知識が無い。 ならば、既に使いこなしている感のある田島に頼み込むほうが早かった。それに彼はきっと興味を持つだろう。 ミリタリーマニアから見たら、減音器は中々に心をくすぐるアイテムで有るからだ。「俺も欲しいな……」「やっぱりか! お前が好きそうだなって思ってたんだよ!」 田島はディミトリが興味を持ってくれたのが嬉しそうだ。大喜びで作成に必要なソフトと3Dプリンターの型番を教えている。ディミトリは家に帰ったら早速注文するつもりだ。 実際に使う際には強度の問題があるので、何らかの対策を考えねばならないだろう。(プラスチック全体を金属製の筒で覆ってしまへばどうだろう?) だが、それは実物が出来上がってから考えていけば良い。頭で考えている事と実物では違いが有るのは当然だ。 まずは実物を作成することが先だろう。それから改良していけば良い。(これで悪巧みが捗るぜ……) ニヤリとほくそ笑んだディミトリは、未だ見ぬ減音器に思いを馳せていた。自宅。 ディミトリは頭痛に悩まされていた。自分を取り巻いている環境もそうだが、今はリアルな頭痛の方が問題だ。 大川病院には鏑木医師が、目の前で殺されてからは行っていない。他にもグルになっている医者がいるかも知れないからだ。 それに腹に銃痕とひと目で分かる傷がある。これは見つ
そこでスマートフォンの位置情報を、後で地図と照らし合わせるだけに留めた。 スマートフォンは一旦山奥に移動した後に繁華街に移動して切れた。切れたのは箱か何かにしまわれたのだろう。(要するに人目につかない場所って事だな……) 山奥に移動したのは死体の処分のため。繁華街は彼らの根城だろうと推測した。 腹の傷からの出血が止まったら、田口兄を脅して偵察に行ってみるつもりだった。(日本にチャイカが居るのは偶然では無いだろうな……) チャイカ。本名はユーリイ・チャイコーフスキイと言っていた。ディミトリはGRUの工作要員であろうと睨んでいる。(まあ、仕事で工場爆破をやったんだろうが、仲間を巻き込んだのは許せねぇな……) 日本に居るのなら昔話でもしに行かなければならない。それも念入りに下準備をしてからだ。 そして自分を付け狙う理由もだ。(あの中華の連中もチャイカの仲間なのか?) 頭痛もそうだが、中華系のグループが何も仕掛けて来ないのも頭の痛い問題だ。 医者を抱き込める程の組織力があるのなら、廃工場の時にディミトリの身柄を確保に動くだろう。 あの時には自分を監視している不審車が傍に居なかったのだ。彼らは家にディミトリが居ると思いこんでたはずだ。 それが無かったので違うグループなのかとディミトリは思い始めていたのだ。 チャイカが中華系の連中と別口なら、ロシア系のグループということになる。・鏑木医師を始末した中華系グループ・自分を罠に嵌めたロシア系グループ・自分を監視している不審車グループ「んーーーーー、三つも有るんか……」 自分の人気ぶりに呆れてしまった。 もっとも、彼らが連携していないっぽいのはありがたかった。 翌日、学校に行くと田口が出てきていた。一週間ぶりになるのだろう。 何故かオドオドしながら教室に入ってきた。「よお」「!」 ディミトリが声を掛けると、田口はビクリとして下を向いてしまった。「大串はどうして出てこないんだ?」「知らないです……」「そう……」「ハイ」「じゃあさ、お前の兄貴に伝言頼まれてよ」「ハイ」「車の助手席の後ろにポケットが付いてるじゃない?」「ハイ」「そこにスマートフォンを入れてたのを忘れていたんだわ」「ハイ?」「俺に渡してくれる?」「ハイ……」 田口は再び俯いてしまった。額に汗を大
自宅にて。 ディミトリは剣崎と連絡を取る事にした。「むぅーー……」 ディミトリは机の引き出しに放り込んでおいたクシャクシャにした名刺を広げながら唸っていた。 あの男から有利な条件を引き出す交渉方法を考えていたのだ。(ヤツは俺がディミトリだと知っているんだよな……) それどころか邪魔者を次々と処分したのも知っているはずだ。なのに、逮捕して立件しようとしないのが不気味だった。(金にも興味無さそうだし……) 金に無頓着な人種もいるが稀有な存在だ。自分の身の回りには意地汚いのしか寄って来ないので都市伝説ではないかと疑っているぐらいだ。「ふぅ……」 ディミトリは考えるのを諦めて、携帯電話に電話番号を入力した。 剣崎は電話が来ることを予見していたのか、直ぐに電話に出たきた。『やあ、そろそろ電話が来る頃だと思っていたよ』 相変わらずの鼻で括ったような物言いだった。ディミトリは携帯電話から耳を離し、無言で携帯電話を睨みつけた。「ああ、そうかい。 少し逢って話をしたいんだが……」 気を取り直したディミトリは挨拶もせずに用件を伝えた。『別に構わないよ。 何処が良いんだね?』「デカントマートの駐車場はどうだい?」『ふむ。 いざと成れば手軽に行方を眩ませることが出来るナイスな選択だね』「人目が有った方がお互い安全だろ?」『アオイくんを迎えにやるよ』「分かった」『アオイくんは私の命令で見張りに付いていたんだ。 殺さんでくれたまえ』「分かったよ…… 家の前で待っている」 自宅の前で待っていると、車でアオイが迎えに来た。 ディミトリは後部座席に座り、自分の鞄から反射フィルムを取り出した。これは窓に貼るだけでマジックミラーのようになるものだ。 貼っておけば狙撃者
「この後。 ホームセンターに行ってくれ」「良いですよ。 何か買うんですか?」「灯油を入れるポリタンクを買いたいんだよ」「分かりました」 ホームセンターに行き灯油用ポリタンクを十個程手に入れた。それと一緒にオリーブグリーンのビニールシートも購入した。 それと血痕を掃除する洗剤なども買った。「何に使うんですか?」「灯油を入れるポリタンクって言ったろ……」 ディミトリたちは、そのまま複数の給油所に行き、次々と灯油を購入していった。 一箇所だと怪しまれるのでポリタンクの数分だけ給油所を回っていった。「同じとこで入れれば時間の節約になるでしょう」「一箇所で大量に灯油を購入すると怪しまれるだろ?」「そう言えばそうですね……」「何事も慎重に行動するんだよ」「……」「アンタは何も考えずに行動するから面倒事になっちまうんだ」「はい……」 田口兄は訳も分からずに手伝っていた。ディミトリは買って来た灯油はヘリコプターに積み込む予定だ。 あたり前のことだがヘリコプターを飛ばすには燃料が要る。 本来ならジェット燃料がほしかったが、個人でジェット燃料など購入することは結構難しい。一般的に使われる類いの燃料では無いので売って貰えないのだ。 そこで代替燃料として灯油に目を付けたのであった。本当は軽油が良かったが、ポリタンクで軽油を購入するのは目立つのでやめた。 基本的にジェット燃料と灯油や軽油の成分は一緒だ。違うのは含水率と添加剤の有無だ。 もちろん、正規の物では無いのでエンジンが駄目になってしまう可能性が高い。それでも手に入れておく必要があった。(剣崎の野郎と会う必要が有るからな……) 何故ヘリコプターの燃料を心配しているかと言うと、近い内に公安警察の剣崎に会う必要が有るからだった。 相手の考えが読めないので、脱出手段の一
大通りの路上。 田口兄が車でやってきた。一人のようだ。「よお……」「どうも、迷惑掛けてすいません……」 ディミトリは憮然とした表情で挨拶をした。 田口兄は愛想笑いを浮かべながら、自分の問題を解決してくれたディミトリに感謝を口にしていた。「……」 ディミトリは田口兄の挨拶を無視して車に乗り込んでいった。「俺の家に帰る前に寄り道してくれ」「はい」 田口兄は素直に返事していた。年下にアレコレ指図されるのは気に入らないが、相手がディミトリでは聞かない訳にはいかない。 何より怒らせて得を得る相手では無いのを知っているからだ。「何処に向かえば良いですか?」「これから言う住所に行ってくれ……」 そこはチャイカたちが使っていた産業廃棄物処分場だ。 確認はしてないがそこにジャンの所からかっぱらったヘリが或るはず。その様子を確認したかったのだ。 処分場に向かう間も無言で考え事をしていた。田口兄はアレコレと他愛もない話をしているがディミトリに無視されていた。 やがて、目的の場所に到着する。山間にある場所なので人気など無い。道路脇に唐突に塀が有るだけなので街灯も何も無かった。 産業廃棄物処分場の入り口には南京錠が取り付けられている。ディミトリは中の様子を伺うが人の気配は無いようだった。「なあ…… ワイヤーカッターって積んである?」 きっと泥棒の道具として、車に積んでいる可能性が高いと考えていた。「ありますよ。 コイツを壊すんですか?」「やってくれ」 田口兄はディミトリに初めてお願いされて、喜んでワイヤーカッターで南京錠を壊してくれた。 後で違う奴に付け替えてしまえば多分大丈夫と考えていた。 中に入るとヘリコプターは直ぐに分かった。ヘリコプターは処分場の中程にある広場のようになった真ん中に鎮
『はい……』「帰りの足が無くて往生してるんだ」『はい……』 ディミトリは電柱に貼られている住所を読み上げた。田口兄は十五分程でやってこれると言っていた。『あの連中は何か言ってましたか?』「ああ、鞄を返せとは言っていたが、それは気にしなくて良い」『どういう事ですか?』「話し合いの最中にバックに居る奴が出て来たんだよ」『ヤクザですか?』「そうだ」『……』「ソイツの組織と別件で前に揉めた事があってな……」『あ…… 何となく分かりました……』「ああ、かなり手痛い目に合わせてやったからな」『……』 ディミトリの言う手痛い目が何なのか察したのか田口兄は黙ってしまった。「俺の事を知った以上は関わり合いになりたいとは思わないだろうよ」『い、今から迎えに行きます』 田口兄はそう言うと電話を切ってしまった。 大通りに出たディミトリは、道路にあるガードレールに軽く腰を載せていた。考え事があるからだ。 帰宅の心配は無くなった。だが、違う心配事もある。(本当に諦めたかどうかを確認しないとな……) 追って来ない所を見ると諦めた可能性が高い。だが、助けを呼んでいる可能性もあるのだ。確かめないと後々面倒になる。 その方法を考えていた。(家に帰って銃を持って遊びに来るか…… いや、まてよ……) そんな物騒な事を考えていると、違う方法で確認出来る可能性に気が付いた。(剣崎が灰色狼に内通者を持っているかもしれん……) ディミトリの見立てでは剣崎は灰色狼に内通者を作っていたフシがある。 灰色狼は日本に外国製の麻薬を捌く為
隣町の路上。 店を出たディミトリは、大通りの方に向かって歩いていった。なるべく人通りが或る方に出たかったからだ。 彼らが追撃してくる可能性を考えての事だった。相手が戦意を失っている事はディミトリは知らなかった。だから、追撃の心配は要らなかった。 だが、違う問題に直面していた。(う~ん、どうやって家に帰ろうか……) 学校帰りに大串の家に寄っただけなので、手持ちの金は硬貨ぐらいしか持っていない。ここからだとバスを乗り継がないと帰れないので心許ないのだ。(迎えに来てもらうか……) そう考えたディミトリは、歩きながら大串に電話を掛けた。 まさか、バーベキューの串で車を乗っ取るわけにもいかないからだ。「そこに田口はまだ居るのか?」『ああ、どうした?』「田口の兄貴に俺に電話を掛けるように伝えてくれ」『構わないけど……』 大串が言い淀んでいた。気がかかりな事があるのは直ぐに察しが付いた。「田口の兄貴を付け回していた車の事なら、もう大丈夫だと言えば良い」『え!』「お前の家を出た所で、田口の兄貴を付け回してた連中に捕まっちまったんだよ」『お、俺らは関係ないぞ?』前回、騙して薬の売人に引き合わした事を思い出したのだろう。慌てた素振りで言い訳を電話口で喚いている。「ああ、分かってる。 連中もそう言っていた」『……』「きっと、見た目が大人しそうだから言うことを聞くとでも思ったんだろ」『無事なのか?』「俺が誰かに負けた所を見たことがあるのか?」『いや…… 相手……』「大丈夫。 紳士的に話し合いをしただけだから」『でも、それって……』「大丈夫。 今回は殺していない……」『&helli
「この通りだ……」 ワンは銃を机の上に置いた。そして、両手を開いて見せて来た。「なら、その銃を寄越せ……」 ワンは銃から弾倉を抜いて床に置き、足先で滑らせるように蹴ってきた。ディミトリはそれを靴で止めた。「アンタに弾の入った銃を渡すと皆殺しにするだろ?」(ほぉ、馬鹿じゃ無いんだ……) 彼の言う通り、銃を手にしたら全員を皆殺しにするつもりだった。 ワンはそれなりに修羅場をくぐっているようだ。 ディミトリは滑ってきた銃をソファーの下に蹴り込んだ。これで直ぐには銃を取り出せなくなるはずだ。「鶴ケ崎先生はどうなったんだ?」「おたくのボスに殺られちまったよ」「……」 どうやら、灰色狼は組織だって動いて無い様だ。誰が無事なのかが分かっていないようだ。「それでボスのジャンはどうなったんだ?」「さあね。 ヘリにしがみ付いていたのは知ってるが着陸した時には居なかった」「殺したのか?」「知らんよ。 東京湾を泳いでいるんじゃねぇか?」(ヘリのローターで二つに裂かれて死んだとは言えないわな……) 手下たちは額に汗が浮かび始めた。さっきまで脅しまくっていた小僧がとんでも無い奴だと理解しはじめたのだろう。「ロシア人がアンタを探していたぞ……」「ああ、奴の手下を皆殺しにしてやったからな…… また、来れば丁寧に歓迎してやるさ」 ディミトリは不敵な笑みを浮かべた。 ワンは少し肩をすぼめただけだった。どうやらチャイカと自分の関係を知らないらしい。「俺たちは金儲けがしたいだけだ。 アンタみたいに戦闘を楽しんだりはしないんだよ」「……」 やはり色々と誤解されているようだ。自分としては降りかかる火の粉を振り払っているだけなのだ。結果的に
ナイトクラブの事務所。 ディミトリは弱ってしまった。部屋に入ってきた男はジャンの部下だったのだ。そして、この連中はコイツの手下なのだろう。 折角、滞りなく帰宅できるはずだったのに厄介な事になりそうだ。(参ったな……) ディミトリは顔を伏せたが少し遅かったようだ。男と目が合った気がしたのだ。「お前……」 入ってきた男が何かを言いかけた。その瞬間にディミトリは、右袖に仕込んでおいたバーベキューに使う金串を、手の中に滑り出させた。こんな物しか持ってない。下手に武器を持ち歩くのは自制しているのだ。 ディミトリは車で送ってくれると言っていた男の髪の毛を引っ張って喉にバーベキューの串を押し当てる。 これならパッと見はナイフに見えるはず。牽制ぐらいにはなると踏んでいるのだ。 いきなり後頭部を引っ張られてしまった相手は身動きが出来なくなってしまったようだ。何より喉元に何かを突きつけられている。 兄貴と呼ばれた男と部屋に居た残りの男たちも動きを止めてしまった。「動くな……」 ディミトリが低い声で言った。優等生君の豹変ぶりに周りの男たちは呆気に取られてしまっている。 しかし、入ってきた男は懐から銃を取り出して身構えていた。ディミトリの動きに反応したようだ。「え? 兄貴の知り合いですか?」「何だコイツ……」 部屋に居た男たちはいきなりの展開に戸惑いつつ兄貴分の方を見た。「ちょ、待ってくれ!」 だが、兄貴と呼ばれた男が意外な事を言い出した。(ん? 普通はナイフを捨てろだろ……) ディミトリは妙な事を言い出した男に怪訝な表情を浮かべてしまった。「俺は王巍(ワンウェイ)だ。 日本では玉川一郎(たまがわいちろう)って名乗っているけどな……」「ああ、ジャンの手下だろ…… 倉庫で
「田口君のお兄さんが鞄を持って行ったって何で解ったんですか?」 大串の家で聞いた限りでは誰にも見られていないはずだ。だが、現に田口の家ばかりか交友関係まで把握しているのが不思議だったのだ。「防犯カメラに田口が鞄を弄っている様子が映ってるんだな」 一枚の印刷された画像を見せられた。防犯カメラと言うよりはドライブレコーダーに録画されていたらしい画像だ。 黒い革鞄と田口兄が写っている。それと車もだ。ナンバープレートも写っていた。(泥か何かで隠しておけよ……) 泥棒は車で移動する時にはワザと泥などでナンバープレートを隠しておく。防犯カメラに備えるためだ。「鞄を返せと言えば良いだけだ」「鞄の中身は何なの?」 何も知らないふりをして質問してみた。「中身はお前の知ったこっちゃない」 男はディミトリをギロリと睨みつけながら言った。「まあ、そんなに脅すなよ。 中身はそば粉と子供玩具と湧き水を容れたボトルさ」「?」 子供騙しのような嘘だとディミトリは思った。「この写真を見せながら言えよ?」 ボス格の男はそう言うと何枚かの写真を投げて寄越した。 写真には田口と田口兄。それと一組の夫婦らしき男女の写真と、小学生くらいの女の子の写真があった。田口の家族であろう。 最後は故買屋の防犯カメラ映像だ。鞄の処理の前に銅線を売りに行ったらしい。 普通の窃盗犯であれば仕事をした後は暫く鳴りを潜めるものだ。そうしないと探しに来る者がいるかも知れないのだ。(ええーーーー…… 素人かよ……) 余りの幼稚な行動にめまいがしてしまった。「そば粉なら、また買えば良いんじゃないですか?」 ディミトリは話の流れを変えようと言い募った。 窃盗した後に迂闊な行動をする馬鹿と、見張りも立てずに取引物をほったらかしにする素人など相手にしたくなかったのだ。「そば粉は別に良い。 ボトルを返せと言えば良い……」 ここで、ピンと来るモノがあった。(そば粉だと言う話は本当だろう……) 見つかった時の言い訳用だ。拳銃が玩具だというのも本当だろう。万が一、職務質問で見つかっても警察が勘違いだと思わせることが出来るはずだ。 ボス格の男が色々と蕎麦に関してのウンチクを並べているがディミトリの耳に入って来なかった。(だが、ボトルの中身は…… 麻薬リキッドだな……) ディミトリはボトル
大串の家の近所。「いいえ、別に友達ではありません……」 ディミトリは警戒して言っているのでは無い。本当に友人だとは思って居ないのだ。「でも、田口のツレの家から出てきたじゃねぇか」 男の一人が大串の家を顎で示しながら言った。 これで男たちが田口を尾行して、彼が大串の家を訪ねるのを見ていたと推測が出来た。「学校でクラスが同じなだけです……」 ちょっと、面倒事になりそうな予感がし始め、ディミトリは警戒感を顕にしていた。「ちょっと、オマエに頼みたいことが有るんだ」 男が手で合図をすると車が一台やって来た。やって来たのは白の国産車だ。 大串たちの話ではグレーのベンツだったはずだが違っていた。「ちょっと、付き合ってくれ」 開いた後部ドアを指差した。「クラスの連絡事項を伝えに来ただけで、僕は無関係ですよ?」 妙齢のお姉さんであれば喜んで乗るのが、おっさんに誘われて乗るのは御免こうむるとディミトリは思った。「田口に届け物を渡して欲しいんだよ」「それなら、おじさんたちが直接渡したらどうですか?」 ディミトリは尚もゴネながら逃げ出す方法を考えていた。「良いから。 乗れって言ってんだろ?」 ディミトリを知らないおっさんは頭を小突いた。瞬間。頭に血が上り始めた。(くっ……) だが、人通りもあって我慢する事にしたようだ。今はまだディミトリは冷静なのだ。ここで、喧嘩沙汰を起こすと警察が呼ばれてしまう。それは無用な軋轢を起こしてしまう。 それに相手は中年太りのおっさんが三人。ディミトリの敵では無い。チャンスはあると思い直したのだった。(周りに人の目が無ければ、コイツを殺せたの……) ディミトリは残念に思ったのだった。 こうして、ディミトリは大串の家から出てきた所を拉致されてしまった。 連れて行かれたのは中途半端な繁華街という感じの商店街。端っこにあるナイトクラブのような地下の店に連れ込まれた。 まだ、開店前らしく人気は無かった。その店の奥にある事務所に連れ込まれた時に、白い粉やら銃やらをこれ見よがしに置かれているのを見かけた。(ハッタリかな……) まるで無関係の奴に見せても益が無いはずだ。ならば、ハッタリを噛ませて言うことを効かせようという魂胆であろう。 ヤクザがやたら大声で威嚇するのに似ていた。「よお、坊主…… 済まないな……」